日本と韓国の間、対馬海峡に浮かぶ島「対馬」。聞いたことはあっても、詳しく知らない方が多いかもしれません。私も今回、初めて訪れ、その歴史と人々のたくましさに心を打たれました。
対馬は長崎県に属し、南北82キロ、東西18キロ、面積約708平方キロの山岳地帯が多い島です。人口は約29,000人。九州の博多港から132キロ、韓国釜山まではわずか50キロ弱と、「国境の島」と呼ばれます。
宗氏と600年の対馬統治
室町時代から、対馬は朝鮮と交流を続けていました。鎌倉時代、阿比留氏の統治が惟宗氏(後の宗氏)に代わり、以後600年にわたり宗氏が島を治めます。厳原(いずはら)にある金石城跡や宗家の菩提寺・万松院には、当時の面影が残っています。万松院の杉の大木や石垣は、今も島の歴史を伝えています。
朝鮮出兵と対馬の外交
1592年、豊臣秀吉の命で宗義智は朝鮮出兵の最前線に立たされます。義智自身は朝鮮との友好関係を大切にしていましたが、命令は絶対。7年にわたる戦いを終えた後、江戸幕府の家康は朝鮮との和平を義智に託します。朝鮮は日本への謝罪と加害者の引き渡しを条件に出しましたが、義智は「身代わり」を差し出し、さらに家康の名を偽った国書を送り、巧みに国交を回復しました。1607年、第一回朝鮮通信使が来日。対馬は以後、日朝外交の重要拠点として機能しました。
元寇と日露戦争の記憶
鎌倉時代の元寇では、対馬は80騎で蒙古軍約2,000人を迎え撃ちましたが、全滅。当時の島主・宗資国も戦死し、女性や子どもまでが過酷な被害に遭いました。逃れた島民の一部は船で青森まで流れ着き、「対馬(つしま)」姓を名乗ったと言われます。
日露戦争では、対馬沖での日本海海戦後、143名の負傷したロシア兵が島に漂着。西泊の農婦たちは彼らを村に迎え入れ、米や麦で手厚く介抱しました。敵国であっても、人としての思いやりを持った島民の姿が今、「日露友好の丘」として伝えられています。
防人と国防の歴史
対馬は古代から国防の最前線でもありました。白村江の戦い(663年)の後、九州沿岸を守る防人が派遣されました。東国出身の若者たちは、3年間の任期で食料も自力で確保し、帰国すら保証されない過酷な任務に従事しました。万葉集には、故郷を思う切ない防人の歌が残されています。
観光と自然
対馬には観光スポットも多彩です。万松院や金石城跡、朝鮮通信使歴史館、対馬博物館など歴史を感じる施設があります。韓国展望台や結石山公園からは、晴れた日には釜山の街が肉眼で見えるほど。和多都美神社や住吉神社では、美しい海や神話の世界に触れられます。
グルメと宿泊
対馬は食も魅力的です。天然穴子は肉厚で脂がのり、石焼きやそば、ろくべえなどの郷土料理も豊富。宿泊施設は島内8つのホテルがあり、フリー旅行でも快適に過ごせます。
対馬の哲学
宗義智の言葉「島は島なりに治めよ」は、外交や自立の哲学を示しています。「国が違うとは、まず違うことを理解せよ」「頼りすぎるな」――対馬の歴史は、日本の外交と国防の縮図と言えるでしょう。
対馬は派手さはないものの、歴史の重みと自然、島民の温かさが融合した特別な島です。最低2泊はして、ガイドの説明を聞きながら巡ると、その感動は格別です。国境の島で、過去と今、そして人々の強さを体感してください。