東北地方に唯一現存する天守を擁する「弘前城」(青森県弘前市)。江戸時代初期に築かれたこの城は、国の重要文化財に指定され、日本全国でもわずか12しか残っていない現存天守のひとつとして、今も静かに往時の栄華を伝えている。季節ごとに異なる美しさを見せる城跡「弘前公園」では、石垣や門、櫓(やぐら)といった史跡が残され、特に春には300本以上の樹齢100年を超すソメイヨシノが咲き誇る桜の名所として全国的に知られている。

弘前藩の誕生と為信の躍進

弘前城の礎を築いたのは、戦国の世を駆け抜けた津軽為信だ。1567年、大浦城に婿養子として迎えられた若き為信は、わずか300の兵で津軽平野を支配下に置いていた南部氏に挑み、1571年から本格的な津軽統一戦に乗り出す。賭博場で見つけたならず者をも戦力に加えるなど、型破りな戦術で勢力を拡大。1590年には豊臣秀吉から津軽3郡の領有を認められ、4万5千石の大名となった。

興味深いのは、彼の家柄偽装とも言える策略である。京の近衛家に接近し、自らを「落胤」と称して猶子となることで、公家の権威を手に入れた。これにより家紋に杏葉牡丹を掲げ、「津軽」姓を正式に名乗るようになる。さらに関ヶ原の戦いでは家族を東西両陣営に分けて参戦させ、いずれが勝っても家を守れるよう布石を打つ周到さを見せた。

城と城下町の誕生、そして弘前へ

為信の死後、家督を継いだのが三男・津軽信枚(のぶひら)。信枚は1609年に徳川幕府から築城の許可を得て、翌年「高岡城」の築城を開始。1611年には完成を見たが、完成からわずか16年後の1627年、落雷によって天守は焼失してしまう。

その翌年、地名は「高岡」から「弘前」へと改められ、城の名も「弘前城」となる。この命名は、信枚が深く帰依していた天台宗の高僧・天海大僧正によるもので、密教の教えに基づいたものであるとされる。以後、弘前は津軽藩の政治・文化の中心地として発展していった。

幕府との絆と、藩を支えた女性たち

信枚は徳川家康の養女・満天姫を正室に迎え、幕府との関係を強化。その一方で、石田三成の遺児・辰子とも深く愛し合い、彼女との間に嫡男・信義をもうけた。政略結婚と真実の愛、二つの家族関係を信枚は同時に支えた。

満天姫は自らの子ではない信義を我が子として育て、信枚の死後も「藩を守ることこそが私の役目」として津軽家の安泰に尽力。かつての夫との子である福島直秀が幕府に不穏な動きを見せた際には、己の手で毒杯を取らせて命を絶たせるという決断まで下した。その強さと覚悟は、幕末まで続いた津軽藩の土台を支えたと言ってよい。

現代に残る城と物語

現在の弘前城は、天守をはじめとする櫓や門、石垣が往時の姿をとどめ、弘前公園として多くの人に親しまれている。春は桜、夏は新緑、秋は紅葉、冬は雪景色と、四季折々の自然が城を彩る。訪れた人々からは「紅葉と岩木山の夕景が幻想的だった」「天守の移動に驚いたが、修理の様子も興味深かった」といった声が寄せられており、歴史だけでなく、今この瞬間の美しさを楽しめる場所でもある。

弘前城は、ただの観光地ではない。津軽の人々の誇りと覚悟が詰まった、静かなる時の証人なのだ。